「美しい」と思う感覚は、環境に適応するための人間の防衛本能ではないか。と、ふと思う。

たとえば、人は、程度の差こそあれ、自然を「美しい」と感じる。湿潤な気象の中で養成される日本人の民族感覚と外国人のそれとでは、明らかに捉え方に差異はあるものの、本能のレベルで、それは万人に平等に植えつけられている。

だが、美しいと思わなければ、なにかを愛せないとしたら、人が自然を美しいと思うのは、その環境を愛すための方便なのではないかとすら思うのだ。「愛」さねば生きてくのに支障が出るならば、そのように感覚は進化するものではないか。
犯罪的に手厳しいはずの「自然」を、ちょうどストックホルム症候群のように。

自分の生きる場所を正当化するために、人間は、もとは異形の集合体であったはずの都会ですら、美しいと言う。

京都でよくお世話になるアートホステルkumagusukuの代表、矢津さんが参加している3人展を観にヒカリエに。

中でも、高橋耕平氏の映像作品『HARADA-san』に、目が釘付けになった。
京都のギャラリー界隈では有名なアートウォッチャー「はらださん」。

60も半ばを過ぎ、ホームレス生活を経て、現在、生活保護を受けているはらださんの人生を、主観による年表と、ドキュメンタリー映像で。
何かを成した人物の年表やインタビューではなく、”何者でもない”人をピックアップしている本作品は、迫るものがあった。
しかし、アートウォッチャーであるはらださんの言葉は、時々どきりとするような「本質」をついていたりする。
その中でも、響いた言葉を。細かい言い回しなどは失念したので、大意を記す。

目の解像度をどれだけあげられるか。
みる、ということに関してまともに考えたことのないやつらばっかりだ。
絵描きはみるってことを考えざるをえないから、考えてる。
アートは、目の解像度をあげられる唯一の方法なんだ。
本なんて駄目だ。アートを見なくては。

自分の中からふとした瞬間に現れる気づきは、「この世で俺が最初に発見した真理なのだ。」と信じきってあげなければ、すぐに「発見」ではなくなってしまうことを見つけた。
発見は、ひとたび迷えばすぐに色褪せて、なんでもない「気づき」に成り下がってしまう。だからこそ。

そんな妄想のような「発見」を、このスペースに書き込もうと思う。

正しいか正しくないかは二の次だ。感覚は、ほっとくと平気で逃げていく。