どの方向から知識を掘り進めてもぶつかる人たちがいる。

インフルエンサーと言われていたり、学者と言われていたり、様々だ。

そういう類の人は、ある程度の人数がいて、彼らが、一つの時代のトレンドを作っている。

そして、その人たちを数多く知っていることが、インテリゲンチャの条件だったりする。彼らの新しい思想が、勉強家の間では、新たな共通言語になるのだ。

それは、インテリたちのシナプスの中に、“共通概念”という、大きな国を作る。その国は新たな概念に対する“暗黙の了解”という切符を要し、その言語を知らない人間は、入国すらできやしないのだ。

即ち、彼らインテリは、別の地平を持っている。とすら、言えよう。

しかし、どこから掘ってもたどり着く場所が、正しいわけではない。

自分は、知識は片寄っていていいと思う。時代のトレンドや、インテリゲンチャの語る新常識を、必ずしも知っている必要はない。そんな話についていけずに目を白黒させていても、自分が好きな分野のこととなったら、誰よりも目を輝かせ、語れればいい。

別の地平にたどり着けなくてもいい、自分だけの国を持てばいいのだ。そこには“共通言語”はないが、誰よりも“独創的”な発想が待っている。
(ここで大事なのは、“どの方向から知識を掘り進めてもぶつかる”彼らは、「実はその大国の住人ではない」ケースも多いということだ。)

新たな地平も、多くの人が知っているならば、それは“陳腐”になる可能性をいつでも秘めている。誰もがが「良い」と知っていることならば、改めて自分も「良い」と声を大にして知らせる必要はない。

例えば、「虹」が「美しい」という事実は、安心たりうる共通言語ではあるが、創造的な発見では決してない。だが、常識では不潔とされる「埃」が「美しい」という価値を見出したならば、それは万人には伝わらなくても、ドキリとするような創造性を内包しているかもしれない。

創作者を目指す人間は、どこかで彼の国の“新常識”を、斜に構えて見る気構えが要る。それはそれで大変なことだ。

もし、それができない、向いていないというのであれば、すぐにでも、できるだけ多くの“共通言語”を身につける努力をすべきだろう。