音楽で剽窃だと認められるのは何小節からだっけ。ふと思う。

そこに制限をかけなければならないのは、あまりに判定をきつくすると、音階の問題だ、すぐに早い者勝ちで取られ尽くしてしまうからなのだろう。

グラフィックの場合はどうだろう。という癖がどうしても僕はついているのだが、考えるに、「画風が似てる」などということはさして問題にならないと思い至る。

例えば、Aさんのイラストに画風が似ている。ということがある。すると、パクリだ!とすぐに飛びつきたくなる気持ちは分からんでもないのだが、実際画風とは、平面上に張り付いた単なる「形」なのだ。それがいかに似た配置になっていようが、そこにそれ以上の意味はないのである。(商業的には意味はあるのだが、ここでは表現上の話をしている。)

これをもし追ってしまうのであれば、突き詰めれば音楽と同じく、その形を先に使ったのはこっち、という単なる早い者勝ちの論になってしまう。そんなことは純粋な「表現」にはなんの意味もないことだ。

東京オリンピックのエンブレム問題でもそうだったが、単純な形、それ自体の話をするのは素人にもできる容易いことなのだが、形は有限だ。そこに込められた「意味」というものにもっと目を向けるべきなのである。

これは不思議なことなのだが、グラフィックデザインには画面上で収縮していく形というのが存在する。

近い感覚に「磁場」というものがある。磁場とは、例えば彫刻を作る上で、完成度が高くなってくるにつれ作品の周りの汚れが、ひいては部屋全体の空間の整頓が気になってくる感覚。いわば、モチーフの持つ空間支配領域である。この感覚は平面にも存在するのだが、「収縮していく形」というのはそういった支配領域とも似て非なる、さらに深度の深い感覚領域に根ざしたものである。

一本の線であろうと、そのモチーフがもつイメージが画面上膨脹するのか、はたまた収縮していくのかという表象は産まれる。そしてそれは条件によって大きく変遷する。

しかもその条件というのはどうやら「特定のモチーフだから」ということではなく、制作者の「性質」によるところが大きい。構成要素を限定してほとんど変わらないものを作らせたとしても、作者が違えばそこには大きく差が産まれることとなる。

つまりは、その人の描く線一本、置く間隔にも作者の癖があって、それが広がりをもつ形か否かを決めるのである。これは天賦の才としか言いようがない。

佐藤晃一先生は、自身の作品に顕在する有名なグラデーションは、自分の描くモチーフの収縮する形を補うための 、いわば消極的なものとして発生したと教えてくださった。この感覚は非常に共感した。

自分の性質もまた、収縮するものであり、そのモチーフとの戦いであったからだ。そしてその戦いは今でも続いている。

グラフィックデザイナーの本分は、細かなレイアウトの整頓やコミュニケーションの構築、はたまた世界観の深化などでもない。視覚本来の特性である「暗黙知の領海」に踏み込み、追求することなのだと思う。